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(2)肺移植手術 岡山大学病院呼吸器外科 大藤剛宏准教授 豪州で200例 術後管理まで一貫

生体肺移植手術を行う大藤准教授(手前左)=2014年1月、岡山大学病院

大藤剛宏准教授

 ―昨年は世界初の生体中葉移植に、全国初の体外臓器リカバリーシステム導入と、大きな節目の年でした。

 大藤 一人でも多くの患者さんを救いたいと考えた結果です。生体移植は通常、最も大きい「下葉」で行うのですが、体の小さな子どもには大きすぎるため、最小の「中葉」を用いた手術に踏み切りました。過去に成功例はありませんでしたが、重い病に苦しむ3歳の男児を救う方法は他にありませんでした。リカバリーシステムは脳死ドナー(臓器提供者)の体内で機能が弱り、移植に適さない臓器の最大限の活用を目指しました。欧米では既に取り組まれている技術です。2006年に短期留学したスウェーデンで技術を学びました。

 ―もともとは心臓外科医を目指していたと聞きました。

 大藤 岡山大医学部を卒業、心臓、肺といった胸部を診ていた第二外科(現・呼吸器外科)に入局しました。香川、広島県の関連病院で勤務した5年は心臓外科医になるための技術習得に心血を注ぎました。

 ―肺移植医になろうと思ったきっかけは。

 大藤 関連病院での勤務を終え、岡山大に戻った時には既に心臓血管外科が第二外科から分離独立しており、どちらか迷いましたが、呼吸器外科を選びました。1998年に行った国内初の生体肺移植では患者の心臓カテーテル検査を担当、ドナー主治医でもありました。手術が成功し、患者が劇的に回復する様子を目の当たりにし、「すごい世界だ」と感じ、移植医になりたいと考え始めました。

 ―当時は、臓器移植法施行(97年)の直後です。症例が少なく、移植医を育てる環境ではなかったと思いますが。

 大藤 その通り。ですから、先輩のつてで豪州・アルフレッド病院(メルボルン)に留学させてもらえるよう手紙を1年半送り続けましたが、返事がない。思い切って同病院のドナルド・エスモア教授を訪ねました。教授は「そんなに働きたいのか」と歓迎してくれ、「試しに6カ月働いてみろ」ということになり、02年から留学しました。

 ―現地で5年間、修業を積まれました。

 大藤 豪州で送った5年間は、移植医として独り立ちと、その後のステップアップに大きく役立ちました。最初の2年間はエスモア教授の下で手術漬けの毎日でした。残り3年間は移植内科のグレッグ・スネル教授に学びました。豪州の移植医は運ばれてきた臓器を縫い合わせるだけなのですが、私は2人の恩師に恵まれ、提供臓器の評価から摘出、手術、免疫抑制などの術後管理までを一貫して習得できました。携わった肺移植も約200例。この経験がなければ今の私はありません。

 ―岡山大では07年秋以降、肺移植の責任者となりました。

 大藤 チームは呼吸器外科、心臓血管外科、麻酔科、関連内科の医師に加え、看護師ら総勢30人。「この人は」と思う方に声をかけ、チームを作りました。これまでに約70例を手掛け、今では鉄壁のチームワークを誇ります。肺移植では臓器を入れ、血管や気管支を縫い合わせるだけではありません。常に患者やドナー肺の状態を考慮し、血液を再び流し始める時期はいつが最適かなどを考える必要があります。スタッフは成長して自ら判断、私が手術しやすいよう先回りしてくれるようになりました。

 ―今年も明るいニュースが聞けますか。

 大藤 脳死ドナー肺の一部を切り取り、小さな子どもらに提供できる新ルールが今年にも始まる見通しです。肺は外気に直接触れる臓器であり、感染症が大敵。術後管理も難しいのですが、チーム一丸となって、患者さんが元気になり、普通の生活に戻れるよう全力を尽くしたいと思います。

◇岡山大学病院(岡山市北区鹿田町2の5の1、電話086―223―7151)

 おおとう・たかひろ 英数学館高(福山市)、岡山大医学部卒。香川県立中央病院(高松市)外科、土肥病院(三原市)心臓血管外科を経て、1998年岡山大第二外科(現・呼吸器外科)に戻り、同年に行われた国内初の生体肺移植に関わった。2002年から豪州アルフレッド病院心肺移植センターに留学、肺移植シニアフェローとなり、携わった肺移植は約200例。07年岡山大に戻り、肺移植チーフになる。岡山大学病院呼吸器外科准教授。日本外科学会外科専門医、日本呼吸器外科学会呼吸器外科専門医。46歳。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2014年02月17日 更新)

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