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(18)よく噛んで食べる 朝日高等歯科衛生専門学校校長 渡邊達夫

 1900年頃の話。日清戦争が終わり、樋口一葉や、尾崎紅葉、島崎藤村が活躍していて、日英同盟が結ばれた頃である。ニューヨークにフレッチャー(1849―1919年)という豪商がいた。彼は時計商を営んでいたが、40歳前後で事業に成功し、大富豪といわれるまでになった。しかし、肥満体で、病弱で、生命保険に入ることも拒否されていた。そこで、いろいろな健康法を求め歩き、実践したが、これはというものに出会わなかった。

 そんな時、イギリスの老首相、グラッドストン(1809―1898年)の記事に接することができた。グラッドストンの健康法は、一口入れたら32回噛(か)んで飲み込む、というものだった。これに挑戦した彼は、身長171センチで100キロあった体重が数カ月後には70キロになったという。これは素晴らしい健康法であると気づき、フレッチャー主義と名付けて世界中に広げる運動をした。横浜にも1年間滞在したという。


(1)ほんとうの食欲が起こるまで食事をしない

(2)食欲が求める食品をえらぶ

(3)よく咀嚼(そしゃく)し、飲み込むより仕方がないようになった時に嚥下(えんげ)する

(4)食物を楽しみながら味わい、食事中に他のことを考えない

(5)食欲が満たされたと思ったら食事をやめる

(6)この実行によって一時はやせるが、間もなく回復する

(7)経済的で食費は約2分の1ですむ

(「予防歯科学」島田義弘編)


 これがフレッチャー主義の概要である。

 日清戦争の時代から120年近くたった今、科学の進歩とともに価値観も変わってきたが、フレッチャー主義の恩恵は、「よく咀嚼し、飲み込むより仕方がないようになった時に嚥下する」である。よく噛むことによって、肥満を防ぎ、脳の発達や老化予防につながり=グラフ参照、がん予防にもなるといわれる。よく噛むだけでそんな効果があるのだったら、実践してみたいものである。

 長年の癖はなかなか治らない。昼食の時、フレッチャー主義を思い出して試みてほしい。お箸を持った時、これを思い出したら大したものだ。お箸を口に持っていった時、まだ、覚えていたら素晴らしい。「飲み込むより仕方がないようになった時」まで噛めたら、もっと素晴らしい。これを三回繰り返すことができた人には、敬意を表する。昼食中、すべて実行された方への称賛の言葉は、見つからない。

 実は、私も試みた。しかし、一番初めは忘れてしまっていた。二度目の挑戦では、お箸を口に入れた瞬間、すでに忘れていた。三度目の挑戦で、「飲み込むより仕方がないようになった時」まで噛むことに成功したが、二口目を噛んでいるとき、お箸で三口目を用意し始め、適当な大きさのご飯の塊が作れた途端、条件反射的に飲み込んでしまった。それ以来、お箸を置いて噛むように心がけている。条件反射をなくすためだ。お箸を持ったままモグモグするよりはスマートかな、と思う。

 一口入れたら30回噛みましょうというけれど、30回ではまだ食品の形は残っている。「飲み込むより仕方がないようになった時」には、最低60回ぐらい噛むことになる。鶏肉の空揚げだったら200回ぐらい噛む。食品の素材の味が出てきて、楽しみが一つ増えるのもありがたい。

 よく噛む習慣は、離乳食の頃からつけてやりたい。スプーンで口に運んで与えるが、赤ちゃんがちゃんと飲み込むのを待ってから、次のスプーンを運んでやればゆっくり食べる習慣の第一歩が始まる。小学校に上がったら、朝ご飯をゆっくり食べさせる時間がない。しかし、夕ご飯ぐらいはお箸をおいてゆっくりよく噛む習慣をつけてやりたい。それによって顎の発育が進み、乱ぐい歯の予防になるし、脳の発育にもよい。廃用萎縮という現象があって、刺激が少なかったり、使っていない臓器などは小さくなってしまうことがある。赤ちゃんネズミの歯を抜いて育てると、脳の発育が悪くなるという実験があった。あんなこと、そんなことから考えると、ゆっくりよく噛んで食べるということは生涯必要なのだろう。
※登場する人物・団体は掲載時の情報です。

(2012年12月03日 更新)

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